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様々なエンタメ作品に対する個人的な感想

小説『死刑にいたる病』を読みました。

作品名:死刑にいたる病

著者:櫛木 理宇(くしき りう)

種類:ハヤカワ文庫

読んだ日:2022/06/02~2022/06/08

 

前半は極力ネタバレ無し、後半はネタバレ有りで書いていきます。
※前情報ゼロで作品を楽しみたい方は、ここから先は読まないようにして下さい。

 

あらすじ

”鬱屈した日々を送る大学生、筧井雅也(かけい まさや)に届いた一通の手紙。それは稀代の連続殺人鬼・榛村大和(はいむら やまと)からのものだった。「罪は認めるが、最後の一件だけは冤罪だ。それを証明してくれないか?」パン屋の元店主にして自分のよき理解者だった大和に頼まれ、事件を再調査する雅也。その人生に潜む負の連鎖を知るうち、雅也はなぜか大和に魅せられていく。一つ一つの選択が明らかにする残酷な真実とは。”

※文庫本、カバーそで部分より引用

 

感想

映画が先か、小説が先か。結構悩んだ末に、映画を先にしました。そのせいもあってか、小説のほうは外伝的な役割になってしまい、ストーリーの面白さというよりは、キャラクターの面白さを強く感じました。

以下に詳細をまとめます。

 

映画よりも詳しく描かれるキャラクターたち

キャラクターたち、特に榛村の生い立ちや人となりがかなり掘り下げられています。雅也、雅也の母、金山のバックグラウンドも詳細に描かれており興味深かったです。

ただ、榛村の登場時の描写はステレオタイプサイコキラーのイメージという感じで、私としてはあまり好感を持てませんでした。

 

榛村に対する印象

雅也が榛村と関わりのあった人物達へインタビューをしていくような形で物語が進んでいくのですが、会う人全員が榛村に対して違う印象を持っていて、それが榛村というキャラクターの根幹を表しているように感じられるのが面白かったです。

 

断ち切れない鎖

親、その親、そのまた親、と遡っていくシーンが数多く登場します。親の持ち合わせた因子、あるいは虐待などの実質的に与えた害悪が、その子供や孫にどのような影響を及ぼしたか。それらが鎖のように繋がっている印象でした。

余談ですが、文庫本になるにあたって題名が改訂されたようで、元々の題名は『チェイン・ドッグ』だったようです。読み終わってから知ったので、ちゃんと伝わってきてたんだなと思い驚きました。

 

 

※ここから先はネタバレを含みます※

 

 

心に留まった一節

”――どうして人は孤独を恥ずかしいと思ってしまうんだろう。”

同じ大学に通う程度の低い学生たちに嫌気が差し、そんな環境に馴染めない、馴染みたくもない雅也の心情が集約された一節。とても哲学的で、頭に残った言葉です。

自立した人間を「ぼっち」というポップな言い回しで揶揄し、結果的に追い出す。集団行動を重んじているようで、簡単に人を仲間はずれにしたり、利用したりする人たち。そんな人たちの輪でも、どこにも属していないよりはマシ、と考えてしまう状況もあります。一人のほうがのびのびできるけど、みんなと一緒がいい、という矛盾。特に学生時代は人と人との距離が近くて、一度コミュニティに属してしまうと、割り切るのも難しいことです。

雅也は「都市伝説だろう」と疑っていましたが、便所飯の話も気持ちは解ります。私も学生時代に一瞬やろうかどうか迷ったことがありました。でもさすがに衛生面を考えると出来なくて、なら食べないほうがマシだなと思い、食事自体を諦めたことがあります。気にせずその辺のベンチとか公園とかで食べればよかったんでしょうけど、その時は出来ませんでした。きっと孤独が恥ずかしかったんだと思います。

この「孤独は恥ずかしい」という気持ちを解決するには、孤独を楽しむことではないかなと思います。一人じゃないと出来ないこと、一人だからこそ面白いこと、というのがきっとあって、それを見つけられたらいいのかな、と。それが難しいから困るのだけれど。そして榛村は、よくない方向に孤独の楽しみを見つけてしまったわけだけれど……

 

”「不幸な生まれなら、人殺しになってもいいんですか? 違うでしょ。孤児だろうと施設育ちだろうと、犯罪とは無縁に立派に生きている子たちが世の中にはたくさんいるんです。生まれ育ちがよくないから犯罪に走ったなんて言い訳は、そういった子たちに対する冒瀆(ぼうとく)ですよ。そうじゃありませんか?」”

榛村の実母の従姉にあたる女性(ややこしいな)の言葉なんですが、ものすごい正論なんですよね。正論なんですけど、なんというか、私にはとても冷えた言葉に思えました。

もちろん犯罪を犯すのは許されることではありませんが、そういった人物の背景を一切無視していいのかというと、それもまた違うんじゃないかな、と私は思っています。加害者を養護するべき、とまでは思わないにしても、そこに至ってしまった過程を無視することは、自分の理解できないものに対する恐れと向き合うことから逃げているだけのような気がしてしまいます。しかし、そういった環境で育ったから、という安直な理由づけもまた、逃げの一種なんじゃないか、とも思います。人はなぜ人を殺すのか。殺人を犯す者とそうでない者の違いは何か。これは私が何度でも考えてしまうことです。こういった作品に出会うたび、考えを巡らせてみていますが、一生答えは出なさそうです。

 

”「あなた、ナイフを隠し持ったつもりで、お姑さんの前に立ってみなさい」”

パン屋の常連客の女性にアドバイスした榛村の言葉。殺人鬼からのアドバイスという立ち位置なので恐ろしさもありますが、案外実用的かもな、と思ってしまいました。人からナメられがちな私なので、本気でそれが嫌になったら、ちょっとやってみてもいいかもな、と。もちろん、本当にナイフを持ったりはしませんが。

 

映画と原作の違い

原作では榛村の生い立ちや人となりを追うことをメインに物語が比較的ゆっくりと展開していきますが、映画は展開のテンポがよく、エンターテインメント性が凝縮された作品となっていたと思います。

映画ではグロテスクなシーンが割と過激めだったので、文章でどんな描写がされているのかとヒヤヒヤしていましたが、映画に比べると過激さは控えめで、ちょっとだけ拍子抜けしてしまいました。

映画の感想記事でも同じことを書いていますが、金山のキャラクターデザイン(特に見た目)が大きく違うことと、ラストシーン以外は、映画も原作も物語の道筋は概ね同じなので、個人的にはどっちが先でもそんなに変わらないかなと思います。

それぞれのキャラクターをより知ってから映画を観たい場合は原作が先、何も知らずにとりあえず観たい、ちょっと意外なオチが観たい、という場合は映画が先かな、と。

 

以上、小説『死刑に至る病』の感想でした。

興味を持った方は、ぜひ読んでみて下さい。