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様々なエンタメ作品に対する個人的な感想

映画『哀れなるものたち』を観ました。

鑑賞日:2024/2/23

作品名:哀れなるものたち

 

※ネタバレをいとわない形で書いています。未鑑賞の方や、ネタバレを一切踏みたくないという方が閲覧する場合はご注意下さい。

 

あらすじ

天才外科医によって蘇った若き女性ベラは、未知なる世界を知るため、大陸横断の冒険に出る。時代の偏見から解き放たれ、平等と解放を知ったベラは驚くべき成長を遂げる。
天才監督ヨルゴス・ランティモスエマ・ストーンほか、超豪華キャストが未体験の驚きで世界を満たす最新作。

引用:下記サイトより

www.searchlightpictures.jp

 

概要

映画館(字幕)にて鑑賞。

全編2時間21分(141分)と、そこそこ長め。

R18+。

原作があるようですが、それすら知らない状態で鑑賞。

 

R18とはいえ、性描写のシーン入れ過ぎでは……

そういうシーンが苦手な人は注意が必要です。

想像の3倍はシてると思ったほうがいい←
どれも煽情的な映像とは言い難いと思うので、エロの文脈で採用しているわけではないんだろうな、ということは伝わります。ただシュールというかなんというか……

それとグロテスクなシーンもあるにはあるので、そこも注意が必要です。

 

肝心の内容は、私には難しくてよく解らなかったかも……?

解釈間違ってるかも……?

というのが正直な感想です。

 

シンプルにまとめると、「他者によって異常な方法で無理やり誕生させられた一人の人間が自立するまでの成長譚」という感じでしょうか。

 

とはいえ、いろいろ思うところはあったので、整理していきたいと思います。

 

感想

演出面の私的な解釈

身体は大人で頭脳は幼児状態の時代は白黒映像で、"冒険"に出て初めて性行為をするシーンでカラー映像に切り替わります。また、冒頭の身投げをするシーンでもカラー映像でした。この表現は「ベラ(ヴィクトリア)が幸せかどうか」ではなく、「自分の意思で何かを実行出来ている状態」、「人生の決定権を自身が持っているとベラ(ヴィクトリア)が思えている状態」を表しているのかなと思いました。

 

「ベラから見た世界の色を表している」というのもあるかもしれませんが、それだと身投げした時も白黒じゃないとおかしいような気がしてしまいます。

加えて、登場人物とは関係のない第三者目線のカメラワークが挟まれることがあり、キャラクターと観客の間に何か距離を設けているように感じました。そのため、映像の色切り替えは、ベラの心情を理解する上での情報の補足でしかないのかも、とも思いました。

 

なので、私の中では「この作品はあくまでベラたちの物語であって、観客のあなたはそれを覗き見しているに過ぎず、これらの演出はただ手掛かりを与えているだけ」という解釈になりました。

 

ベラの人生は幸せと言っていいのかどうか

道中がどうであれ、ベラにとってはどんなことも貴重な体験で、それらを経験したからこそ成長し、自立する術を身につけた、というふうに捉えられると思います。表面上は。
もちろん、ベラにとっては間違いなく成長と自立の旅だったでしょうし、最終的には幸せになれたのではないかと思います。

未知の世界に触れることで、あらゆることをどんどん学習し、吸収していく姿は、確かに前向きな気持ちにさせてくれる部分もありました。


しかし、第三者から、少なくとも私からベラの人生を見た場合、彼女が自立するまでの道中は、地獄そのものに見えてしまいました。

 

地獄の始まり

ヴィクトリア(のちのベラ)は、"モンスター"とまで思っていた自分の胎児の脳を移植され、肉体だけとはいえ無理やり生き返らせられました。ヴィクトリアは死にたかったのに死ねなかった。死んですら実験体にされてしまいました。「自らの意志で死ぬ自由」すら奪われたということです。そこには当然、彼女の意志を尊重する気持ちなど存在しません。

ゴッドとしては「妊婦のフレッシュな死体を偶然見つけちゃった、自分の研究に使っちゃお、ラッキー」ぐらいの気持ちではないでしょうか。

 

箱庭

大きな赤ちゃん状態のベラは、外の世界をほとんど知ることなく、いわゆる箱庭の中で暮らしていました。これは「保護されていた」とも言えますが、「支配されていた」とも言えます。「あらゆる危険からベラを守るため」というのもあるとは思いますが、それよりも、ゴッドの「自分の行いと研究を秘匿するため」のほうが動機としては大きかったのではないでしょうか。

また、この時点のベラには、善悪、倫理観、人間の尊厳、性に関すること等、作中で言うところの"社会的良識"は一切教えられていないであろうことが窺えます。

 

これは単なる私の妄想ですが、ベラが「外へ行きたい」と言い出さなかった場合、またはその意思を無視した場合、ゴッドは自分にとっての理想的な環境で"社会的良識"を教えないままベラの脳が大人になるまで育てるつもりだったのではないでしょうか。そして、そういう環境で育った人間がどんな人間になるのかを、蘇生技術と共に自分の成果物として発表するつもりだったのではないでしょうか。

私だったら、自分の親から「あなたは最高の実験体だ、あなたの人生は私の成果物だ」などと言われ、「自分の人生の歩み」や「出自」について発表されることになったら、正気でいられそうにありません。婚約者であるマックスはおそらくその実験には加担しないでしょうから、あくまで妄想ですが。

 

結局ゴッドは、いつの間にか芽生えてしまっていた親心から、ベラを外に送り出すことにしました。しかし自分の死期が近いと知ると、また別の実験体を見つけだし、同じ行為を繰り返します。科学者としての性(さが)と言われればそれまでですが、それは誰かの命を自分の好き勝手にしていい理由にはなりません。単なる身勝手です。というか、似たような状態の死体をよく見つけられたよね←

 

新しい実験体を手に入れ、研究を完成させたいと、感情を捨てて冷酷な科学者になろうとしたゴッド。ですが、結局ゴッドは自分の死や研究どうこうよりも、娘同然のベラが出て行ってしまった寂しさに耐えられなかっただけではないでしょうか。娘の代わりを見つけてどうにか心の穴を埋めようとしてみたけど、やっぱりベラではないから愛着が湧かない、というような。どこまでも身勝手だな……

そんなんでも最期はベラに看取ってもらえたんだから良かったね←

 

旅立ち

無知で好奇心旺盛なベラは弁護士のダンカンにそそのかされ、一緒に"冒険"に出発し、初めての性行為に至りました。ベラが元から知的好奇心・性的好奇心が強いというのもありますが、相手が「身体目当ての男」ということが判らないまま、彼について行く選択をし、性行為がどういう行為なのかを理解しないまま(誰からも教わらないまま)、「幸せになれる」、「"熱烈ジャンプ"出来る」と、何度も繰り返しました。


「ベラの見た目は成人女性だし、ダンカンはベラの生い立ちについて説明を受けていないから、ベラの特性を知らなかっただけでは?」という考え方も出来なくはないでしょう。しかし、人としてベラと接していれば、マックスが気付くことが出来たように、彼女が世界のあらゆることに無知であるということには気付けたはずです。もちろん性のことについて無知であるということにも。

 

ダンカンは自分にとって都合の悪い部分について、わざと見て見ぬふりをし、"駆け落ち"という名目を使って、「自分の欲求を満たすためのオモチャ」としてベラを連れ出したのでしょう。「最初は遊んで捨てるつもりだった」とも言っていましたし。相手が無知のまま性行為に至らせることは罪深いことだと思います。彼の行いは、いわゆるグルーミング(※)にあたるのではないでしょうか。
※ 大人が子供を性的な目的で手懐ける行為のこと

 

社会的良識を身に付けるまで

美味しいタルト、音楽、アルコール、哲学、貧富の差など、ベラにとって心揺さぶられる学びはいろいろはありましたが、旅の途中でどうにもお金が必要になり娼婦をすることに。性行為が本来どういうものなのか、ベラはいまだに知らないままなのに、です。ベラの中には性行為に対して善も悪もないので、ほとんどフラットな精神で娼婦になったのでしょう。むしろ、「ちょっとの時間で性行為するだけでお金をもらえる」ぐらいの認識で。

 

しかし、娼館で働くようになり、性行為をすることで「悲しい気持ちになることがあっても」と口にしました。この辺りでようやく性行為によって生じる負の感情にも目が向き始めたのではないでしょうか。

それでも口答えをすれば娼館のマダムから制裁を受け、娼婦が産んだ赤ちゃんを見せられ言いくるめられ、自分なりに苦痛に耐える方法を試しながら仕事を続けることになります。

 

この場所では自分に選択権はないと突きつけられたことで、選ぶのはいつでも買う側で、買われる側の自分には「相手を選ぶ権利」も「拒否する権利」もないらしいと理解します。そうしてベラは「自立すること」、「自分が選択権を獲得するにはどうすればよいか」について考えるようになりました。

 

とはいえ、もっと違う道を辿ることで、この考えに至ることも出来たはずです。ベラは"冒険"に出た時から、自分の人生の全てを自分で選んできたつもりでいますが、実際は周りの人間に振り回された末、ここに至っています。しかし本人はそのことには気付いていません。この構図が私には結構な地獄に見えてしまいます。
もちろん性行為や娼婦という職業が悪いという意味ではありません。そこに至った過程に問題があるという意味です。

 

故郷へ

ベラはゴッドの死が近いと知り帰郷、自分の生まれの真実を知り、婚約者であるマックスと結婚しようとします。この辺りからベラは今の自分を受け入れ、自分に芽生えた意思と知性を尊重することを決意していく姿が描かれていました。医者になる夢をゴッドに告げたり、社会主義の集いに参加したり、解剖について学ぶ姿から、ベラの成長を感じられます。

 

しかし結婚式の際、ヴィクトリアの元夫であるアルフィーが現れます。ベラの身体が元々歩んでいた人生、ヴィクトリアの痕跡。なぜ、このタイミングで来てしまったのか。完全にダンカンの逆恨みです。

 

哀れなダンカン

ダンカンは、初めはベラを「簡単にコントロール出来る世間知らずのチョロい女」だと思い、ほんのお遊びのつもりで連れ出しました。しかし、ベラが自分の思い通りに行動してくれないことに腹を立て、むしろそこに魅力を感じ、本気になってしまいます。

ですが、ベラの気持ちが自分に向いていないと解ると酒とギャンブルに溺れ、しばらくベラに構いもしなくなりました。そんなベラの手によって彼は一文無しに。

うまくいかなくなった人生の全てをベラのせいにして、しつこく付きまとっては当たり散らしますが、ベラから暗に「私にお前はもう必要ない」と告げられたことで、精神疾患に陥り監禁(入院?)される身となりました。

確かに浅慮な善意からダンカンのお金を無断で人に渡してしまったのはベラですし、ベラにも悪い部分はあります。ですが、彼の所持品は彼が自分で管理すべき物なので、ベラを責めるのはお門違いです。そもそも彼女は善悪ですら学んでいる途中でした。

自分のことしか考えず、飲んだくれて眠っていた君が悪いと思う、ダンカン。

 

それと、これは劇場でのこと。ベラに相手にされなくなりダンカンが冷たくあしらわれているシーンが何度かありましたが、そこで笑いが起きていました。私には理解できない感覚でした。

彼の身に起きたことは全て自業自得ですし惨めな男ではありますが、酷く哀れでもあります。コメディとして観ることも出来るタイミングのシーンではありましたが、私には笑えませんでした。本気で失恋して、しかもその失恋相手に宥められながら悲しむ人を観て、何が可笑しかったんだろう……

 

とまあ、それは置いておいて、ベラはもう一人の自分、身体の主であったヴィクトリアの人生に興味を持ち、アルフィーについていってみることにしました。

 

「ヴィクトリアの気持ちが解った」

元々住んでいた家に行き、ヴィクトリアがどのような人だったのか、使用人にどんな態度を取っていたのか、夫であるアルフィーからどのように扱われていたかを知りました。

 

アルフィーも相当な地獄の作り手です。

「女性を子供を作る機械としか思っていない」の典型でした。気に入らないことがあればすぐに銃で相手を脅し、自分に服従させようとします。

ベラが娼婦をしていたことを知るとアルフィーは激怒。ベラを薬で眠らせ、彼女の性器を切除してしまおうと計画していました。これはベラを一人の人間ではなく、自分の所有物としてしか見ていない証拠です。

その企みに気付き、彼に詰め寄るベラ。銃を向けられクロロホルム入りのジンを飲むように脅されますが、ベラは強い意思を持ってこれを拒絶し、銃を奪い取って彼の足を撃ち抜きます。

私から見たベラの地獄はようやくここで終わりを迎えます。ですが、また別の不安要素が現れます。

 

ゴッドへの一歩

ベラはアルフィーを連れ帰りました。撃ち抜いた足をマックスに治療させ、ヤギの脳を入れることにします。庭の草を食べるだけになったアルフィーは元の人間よりはマシ、むしろ有益とすら思えます。

しかし、これはアルフィーの自由意志を奪ったということでもあり、ベラがゴッドたちと同じことをする人間になってしまったとも捉えられます。

 

そうしてベラは、医者になるための勉強や研究を行いながら、家族のような人たちとペット(?)たちと過ごす、という最後。
ハッピーエンドのように見えますが、このまま行くと彼女もゴッドのように実験体を探すようになってしまうのではないか、と思えてしまいました。

 

キャラクター全員が哀れなるもの

私から観ると、主要キャラクター全員が「哀れなるもの」でした。


科学者である父親から実験という名の虐待を受けた過去がありながら、その父親と同じ科学者として成功したいゴッド。

 

暴力的かつ支配的な夫の子を身籠り、恐らくあらゆる理由があって追い詰められ、自ら死を選んだにも関わらず、生き返らせられてしまったヴィクトリア。

 

成人女性の身体に胎児の脳を移植され、箱庭に閉じ込めて育てられ、自分の意志で"冒険"に出て自分で選んだ人生を歩んできたと思い込んでいたベラ。

 

ベラを心から愛しているものの想いが伝わり切らず、他の男と"冒険"に出て行かれてしまったマックス。

 

お遊びのつもりが、いつしか本気になってしまい破滅したダンカン。

 

恐怖で支配することでしか人と関われず、最後はヤギの脳を移植されたヴィクトリアの元夫アルフィー

 

二人目の実験体として生き返らせられてしまったフェリシティ。

 

タイトルの通り、「哀れなるものたち」の物語。

それでも、それぞれにいくらかの救いはあったのかな。

 

フェミニズム映画と評されることへの違和感

フェミニズム映画」と評する人もいるようですが、そうでしょうか。

私は特にフェミニズムに詳しいわけでもないので、口を挟むべきではないのかもしれませんが、その視点でこの映画を観た場合、「フェミニズム」という表現で合っているのかどうか、いささか疑問を感じます。

確かに、最終的にベラは、旅を経てあらゆることを学び吸収し、自分の意思で人生を歩み出しているので、その点を鑑みれば「フェミニズム映画」と言うことは出来るのかもしれません。


中には、「女性の性行為の自由について訴えている」という意見があり、これには強い違和感がありました。

というのも、この映画は6〜7割程度のシーンが性行為や性に関するシーンで占められている印象です。そして、性行為をしているのは、性に対して無知な状態のベラである場合がほとんどです。

 

仮にベラが、序盤から性に関する行為がどういうものなのかを理解しており、そのうえで、「自分の身体は自分のもので、自分の自由にしていい」という認識のもと、ダンカンについて行き、あらゆる男性と性的な行為をし、性の職に就き、ということであれば、「女性の性行為の自由について訴えている」というメッセージと捉えることも出来るのかもしれません。

 

しかし、ベラは終盤まで性行為に対して快感・不快感以外のほとんどを知らない状態です。妊娠するかもしれないこと、性病にかかるかもしれないこと、怪我をするかもしれないこと、自分の身体に触れることを相手に許すことにはどんな意味があるのか等、最低限知っておかないといけないことは様々あるでしょう。ですが、ベラはそれらを知らない状態のまま性行為をしていました。それはベラにとって本当に自由意志と言えるでしょうか。

 

おそらく娼館で出会った女友達、あるいは恋人にも見えましたが、彼女から社会主義の集いに誘われた辺りで、ようやく性に関する様々も学んだのではないかと推察します。それまでのベラにとっての性行為は、気持ちいいこと、面白いこと、興味深いこと、でも嫌なこともある、ぐらいの認識しかなかったのではないでしょうか。

そんな状態だったので「この作品は女性の性行為の自由について訴えている」という意見には私は全く賛同出来ませんでした。

 

他の方の感想で気付いたこと

「胎児の脳は男性とも女性とも判らない」と書いている方がいてハッとしました。確かに。私は完全に女性の脳だと思い込んで観ていました。というか、そもそも脳の性別がどうとか、そんな意識もなかったです。

仮にベラに移植された胎児の脳が男性の脳だとしたら、と考えてみましたが……

それでも道中は大して変わらないかもしれないな……?

 

むしろ「ベラの脳は男性の脳である」と言われたほうが、しっくりくるまであるような。ただ、そう感じてしまうのは「無意識な偏見」というやつだと思うので、この作品を観るにあたっては、あまり深く考え過ぎないほうがいいのかもしれません。

 

まとめ

映像はオシャレ。音楽も面白い。配色が美しい。衣装も奇抜。俳優陣の演技も素晴らしいし、苦労も相当しただろうと思います。なので、それらは評価されていいとは思います。実際、賞もたくさん獲っていますし。ただ、ストーリーに関しては……うーん……

 

私から観ると、この映画は、「一人の人間の成長譚」でもありますが、「性に関する地獄のストーリー」という側面も持っているように見えました。

なので、興味深いという意味では面白いとは思いますが、この映画を素直に賞賛することが出来ない、というのが正直な気持ちです。

 

作品にはいろんな見方があって、いろんな意見があっていいと思います。自分にとって良い悪い好き嫌い面白いつまらない、それこそ自由です。今回は考えることが多くてなんだか大変な映画でした。それが映画の面白いところでもあり、好きなところでもありますが。

 

以上、映画『哀れなるものたち』の感想でした。

 

 

おまけ

かなり偏った余談1

「(年齢差があろうが)本人がいいって言ってるんだからいいじゃないか」、「(相手が何歳だろうが)本人の意思を尊重しよう」みたいなことを言う人がいますが、私は一概に「いい」とは言えないと思っています。一方で、「状況による」とも思っています。

 

誰かを好きになること自体は、どういう関係性であれ自由だとは思います。

ただ、性行為に関しては、相手が何歳であれ、両方ともがそれに関してあらゆる知識を得ていて、責任能力(判断能力)があり、それらを踏まえたうえで、本人の決断かつお互いの合意がある、ということなら、それは自由意志だし、尊重されて然るべきだと思います。

ですが、そうでないのであれば、「それは本当に自由意志と言えますか?」という話で。「自分にとって都合の悪いことを隠したり、相手を騙したりしていませんか?」という話で。相手を本当に思いやるなら、あらゆる開示はしたほうがいいよね。

 

性行為に限らず、何も調べたりせず好奇心だけの「やってみたい」という動機しかない人に、リスクを伴うことも教えずに後押しする人はいないと思うのですが……

なんで恋愛とか性の話になるとハードルが下がっちゃうんでしょうね……

もちろんこれは、全く関係ない人間が口を挟んでいいことではないので、当事者同士&保護者たちでちゃんと話し合って完結してね、って感じですが。

 

かなり偏った余談2

これも性に関することとは限りませんが、いろいろあった末に、「そうは言っても自分で選んだんだから」なんてことを言う人がいますよね。

この映画で言うと、ベラの場合、自分が無知であることに気付けないまま性の仕事に就きました。そういう過程を辿っている場合、「自分で選んだ」とは言えないと、私は思います。

知性と理性を獲得したベラは、過去のことを後悔したり恥じたりしている様子はなかったように見えましたが、心の中は分かりません。罪悪感を持っている部分もあるかもしれないし、誇りに思う部分もあったりするかもしれません。

 

なんにせよ、「ああ、今自分はイヤなんだな」って気付いた時点で、逃げ出したり、誰かに助けを求めたりしてもいいし、「あの時、自分はイヤだったんだな」って、後悔したり、反省したり、落ち込んだりしてもいいに決まってる、って私は思ってます。

自分の人生の全てを肯定できる人って、そんなにはいないと思ってるので。

苦しんでいる最中に、無理に肯定を選ばせようとしてくる人は、私はあんまり信用できないです。それに、「あなたに私の何が解るのか」と思ってしまいます。

私はまず「自分は苦しんでるんだ」ってことを「苦しんでるんだね」って肯定してほしいです。「自分で選んだんだから、今を受け入れなよ」なんて言わないで、「別の道を探そう」とか「ちょっと休憩しよう」とか言ってほしいですね。

まあ、そんなことを言ってくる相手でさえ見極めなければいけないんですが←

 

かなり偏った余談3

「社会的良識なんてクソくらえ」という意見自体は、私も肯定したいところですが、それは社会的良識を身に付けたうえででしか言えないことだと思います。

「社会的良識を身に付けたうえで、クソくらえという振る舞いを自ら選択している状態」と、「社会的良識を知らないまま奔放に振る舞っている状態」とでは意味が違うので。

この映画の主人公であるベラは、ほとんどのシーンで後者ですよね。

なので、この映画の感想としては、その意見は違うかなと思いました。

 

とはいえ、自分に社会的良識が備わっているとは全く思えないから、その意見は一生掲げられないかもしれないけど←

 

かなり偏った余談4

主演のエマ・ストーン氏が映画の制作側でも関わっているというアピールが、私としてはあんまり印象よくないなと感じています……

新しい某アトラクション施設を作った人も「有能な女性社員が花魁のアトラクションを企画してくれて」みたいに言ってましたが、内容がどうであれ「性に関わるコンテンツだけど、女性からも意見をもらって制作してるから大丈夫」みたいな免罪符的な扱いに感じてしまったり、「私たちは男性ですが、女性の意見も聞き入れていますよ」みたいなポーズに見えてしまったりして、よく解らない心配をしてしまうという。でも、そういう謎の心配が女性の社会進出や権利獲得を邪魔しているのかも、とも思うし……

この感情をどうしたものかと、勝手にモヤモヤしています…… 

 

かなり偏った余談5

この映画のCMで「もし女性としての生き方を、一から選べたら?」とか言ってましたが、その紹介の仕方で大丈夫なのかな、とか。

「女性としての生き方を選んでる」って言えるのかな、この映画。

確かに好奇心のままに生きてるし、自由だったとは思うけど。

映画を観る前にテレビでこのCMを観てしまい、その時点で「そんな宣伝文句で大丈夫か?」となってたし、観た後も、やっぱり私にはしっくりこなかったです←

 

おわり。